環境DNAを用いた海洋生物多様性の評価と水産生物の資源量把握
海洋生物資源科学部門・海洋環境科学分野・笠井研究室の紹介です
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水や土壌といった環境中に含まれるDNAは「環境DNA」と呼ばれています。近年の環境DNA研究の発展は目覚ましく、生物を直接捕獲しなくても、現場では少量の水を採取するだけで、ターゲット生物の在/不在やバイオマス、そして遺伝情報を得ることが可能となってきました。環境DNA法を用いれば、従来の手法では手に入れることができなかったマクロ生物に関するビッグデータを得ることができ、海洋生物の多様性評価や資源量推定につながると期待されています。
日本の近海は世界の中でも特に多様性が高く、魚類だけでも4千種を越えることが知られています。そして、そのうち市場に出回る魚は数百種類にものぼると言われています。魚類だけにとどまらず、アサリやサザエなどの貝類、イセエビやズワイガニなどの甲殻類、コンブやワカメなどの藻類など、海洋に生息する幅広い分類群に属する多様な生き物によって、日本の食生活と食文化が支えられています。これは農業や畜産業には見られない、水産業の大きな特徴です。
この多様で豊かな水産資源を将来にわたって持続的に利用していくためには、その資源量を適切に管理し、枯渇させないことが大切です。海洋生物は、単独で生活しているわけではなく生態系の一員なので、その資源管理には資源となっている生物の量や分布、齢、サイズ構成といった資源情報のみならず、それをとりまく環境や生き物に関する情報も欠かせません。しかしながら、私たち陸上に住む人間にとって、水中のどこにどのような生物がどれくらい生息しているのかを知ることはたいへん難しいのです。現在の水産物調査では、網を用いて対象生物を捕獲し、得られた量と曳網速度や網口の大きさから自然界に存在する生物量(濃度)を推定する、という手法がよく用いられています。ごく沿岸域の海洋生物を調べる際には、水中に潜って目視観察し、対象生物の数を数えたりすることもあります。一方、漁師が魚を釣ったり網を曳いたりする時は、事前に魚群探知機を用いて獲りたい魚がいることを確かめます。しかしこれらの手法を用いた調査には、多大な時間とエネルギーがかかるうえ、分類のための専門的な知識や、捕獲するための特殊な装置と技術が必要です。そのため、調査の機会やそこから得られるデータには自ずと限りが生じます。また、調査員や調査器具、調査手法などによって結果にばらつきがみられることがあり、推定される資源量はしばしばその定量性が問題となります。これらの問題点を克服する新たな調査手法として近年注目されているのが、環境DNA分析です。
水中、土壌中、空気中などあらゆる環境中には、そこに生息している生物由来のDNAが存在しています。そのDNAを総称して、環境DNA (environmental DNA, eDNA) と呼んでいます。あらゆる生物は遺伝子としてDNAを持っています。バクテリアのような微生物は生体そのものが環境中に存在するので当然そのDNAも環境中に含まれています。環境DNA分析は、もともとはそのような微生物を分析する手段として発展してきた技術です。1990年代に、従来行われてきた培養による分析にかわって、直接環境中の微生物のDNAを調べることができる分子生物学的な技術が発展しました。この手法により、さまざまな環境中に多様な微生物が存在しており、それぞれの生態系の中で重要な役割を果たしていることが明らかとなりました。
環境DNAの調査は、環境水を採水し、採水サンプルをフィルターなどによって濾過してDNAを捕集したのち、濾物からDNAを抽出し、そのDNAを分析する、という手順で行われます。この最後の分析の過程には、現在大きくわけて2 つの方法があります。特定の分類群に含まれる多くの種を網羅的に検出するメタバーコーディング法(多種同時並列解析法)と、ある1種の生物のみを対象として検出する種特異的検出法です。この2つの検出法にはそれぞれ異なる利点があります。前者は一度の分析で多種を同時に検出することができ、後者は対象とする生物のバイオマスの指標となるようなデータを取得することができます。
メタバーコーディング法には多くの種類のDNAを同時に増幅できるユニバーサルプライマーが必要となります。現在は、ある分類群に共通な2カ所の保守的な配列に挟まれた、種ごとに異なる比較的短い塩基配列を読むことで、その分類群の多数の生物種を一度に判別する、という方法がとられています。このプライマーを使ってPCR (Polymerase Chain Reaction、ポリメラーゼ連鎖反応) によりDNAの断片を増幅し、次世代シークエンサーで塩基配列を決定します。得られた塩基配列をリファレンスと比較して配列が一致する生物がいれば、その種が環境中に存在していたと推定することができます。これまでに、魚類、両生類、哺乳類など色々な分類群に有効なユニバーサルプライマーが開発されています。
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環境DNAを用いたもうひとつの手法は、種特異的なプライマーを使ってある特定の生物のDNAを増幅し、定量PCRによってDNA量(濃度)を推定する方法です。水中の生物を捕獲することなく、採水するだけでバイオマスや個体数を推定することができれば素晴らしいことです。しかし、実際の海では流れが一定でなく、生物から放出されたDNAが流れに乗って広範囲に輸送・拡散されていくでしょう。またその過程で微生物による分解などの影響を受けて、DNAの濃度は減衰していきます。そこで私たちは、まず内湾域の詳細な物理環境を再現できる数値モデルを開発しました。そしてそのモデルを舞鶴湾に適用し、魚群探知機によって得られたマアジの生息数や湾内の分布をもとに海水中にDNAを放出し、DNAがどのように輸送されながら減衰していくかをシミュレーションしました。その結果、観測された環境DNAの濃度分布を再現することに成功しました。
海洋のような開放系でも、魚の分布を反映して環境DNAの分布や濃度が決まっているならば、環境DNAを利用してバイオマスを推定できる可能性があります。そこで対象海域を細かなグリッドに区切り、モデルを使ってそのひとつひとつからDNAを放出してすべてのグリッドにどれくらいの量のDNAが到達するかを計算しておきます。そして、それらをどう組み合わせたら現実の環境DNA濃度の分布と最もよく合うかを統計的に計算することによって、グリッドごとの魚の個体数密度を推定しました。その結果、魚群探知機による推定と同程度のバイオマスを得ることができました。
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環境DNAは従来の手法に比べ、簡便で、低コストであり、環境にもやさしい優れた手法です。これまでの海洋調査で得られる生物データは、物理や化学データに比べて圧倒的に少なかったのです。マクロ生物に関する情報は、広大な海の中のある1点の情報を得るにも、多大な労力と時間を要します。環境DNA手法の最大のメリットのひとつは、従来の手法とは比べ物にならないくらい時空間的に密なマクロ生物の情報が得られることです。今後、環境DNAによって生物のビッグデータを蓄積し、物理的、化学的な環境データと対応させることができれば、これまで見ることのできなかったマクロ生物の生態的特性が見えてくるに違いありません。生物と環境との対応だけでなく、生物どうしの種間相互作用についても、新たな知見が得られると期待されます。
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