單元大綱

    •  ヤドカリ絡みで初めて日本を離れたのは,修士2年の終わりである(2012 年2月)。渡航先のニュージーランドには,Pagurus traversi と P. novizealandiae というホンヤドカリ属の固有種 endemic species がいる。W 先生が現地の M 教授協力の下でこれら2種の調査をすることになったので,修士論文の提出と口頭審査を終えた私も,T 先輩と共にお供させていただいた(完全に卒業旅行気分である)。まだまだ冬真っ盛りの北海道からたどり着いた人生初の南半球は,暑くも寒くもなく,さわやかな風が吹き抜ける夏の終わり。充実した 20 日間を過ごした。

    •  臨海実験所から海岸に出て,P. traversi と P. novizealandiae の交尾前ガードペアを探す。そこは,広い岩盤上に無数の溝が並ぶ潮間帯であった。溝には干潮時にも海水がたまり,溝を埋めるように大量の巻貝(スガイ属の一種 Lunella smaragda:図6.4)が転がっていた。本種は分厚い蓋を持つサザエの仲間で,現地では「キャッツアイ(発音はケツァイに近い)」と呼ばれている。その蓋を研磨すると猫の目のような模様が現れることに由来し,街ではケツァイの蓋を磨いて加工したお土産も売られていた(なかなかのお値段だったので購入は断念)。しかし私たちの目当てはケツァイではなく,ヤドカリである。そう思って溝のそばにしゃがみこみ,転がっている貝を片っ端からひっくり返すも,分厚い蓋が目に入る。そう,溝はとにかくケツァイ・ケツァイ・ケツァイ! なのである(空の貝殻も落ちていた)。W 先生のように「ここにヤドカリがいそう」という “ヤドカリセンサー” を持たない私は,とにかく目についた貝を手にとっては,「ケツァイ……」とつぶやいて海に戻す作業を繰り返した。ペアはまったく見つからず,研究を手伝うはずが,何の役にも立てないなぁと情けなさでいっぱいであった。


      図6.4 スガイ属の一種 Lunella smaragda。青く分厚い蓋が目を引く (Council 2017)。

    •  しかし,奇跡が起きた。貝をつまんで持ち上げると,貝がもう1つ持ち上がったのである。まさか,そんな。2つの貝の連結を切らないよう,そっと手に乗せると,確かにヤドカリの付属肢が見えた。「W さん!」,私は立ち上がり,遠くにいる W 先生に叫んだ。「ガ,ガードペア,見つけたかもしれません……」。なんとなく声が震えていたのを覚えている。もしかしたら足も震えていた。何を隠そう,W 先生とサンプリングに来て,先生よりも先にペアを見つけたのは後にも先にもこのときだけである。後から聞くと,初めての調査地ではどんな場所にヤドカリやペアがいるのかわからないので,これまでの経験則よりも,地道に貝をひっくり返すほうがかえって効率が良かったのかもしれない,ということだった。その後,先生もペアを見つけ,研究室に戻った。

       本書でも何度か触れたように,ホンヤドカリ属の交尾前ガードは,ふつうオスが成熟メスの貝殻の入り口をつかんで持ち歩く「かばん」スタイルをとる。しかし,私はここで Hazlett(1966)に描かれていたような,オスがメスの付属肢を直接つかむスタイルのガードを見た(図6.5)。Hazlett のいうようにオスがメスを揺らしているのか,単に引っ張っているだけなのかは判然としなかったが,本当にこんなガードあるんだ……と心底驚き,メスに同情した。というのも,オスにハサミや歩脚をつかまれたメスに「手をつなぐ」といった牧歌的な雰囲気はなく,相手に強引に連行されているようにも見えたのである。通常の交尾前ガードでは,ガードされているメスは基本的には貝殻に閉じこもる(例外もある:木戸ら 2019)。しかし,オスに付属肢をつかまれると,本来は貝殻内に隠せる部分が外にあるので貝殻に閉じこもれず,不安定な体勢で引きずられなければならない。さらに,メスが中途半端に動けるために,オスも動きにくそうに見えた。誰が得するんだこのガード。このときのデータの一部は Wada et al.(2014)にまとめられている。


      図6.5 Pagurus traversi の交尾前ガードペア。通常、本属のオスは小鋏脚のハサミでメスの貝殻の入り口をつかむが、写真のペアたちは、いずれのオスもメスの付属肢を直接つかんでいる。

    • 貝殻がなければ奪えばいいじゃない。イギリスのヤドカリも(Elwood et al. 2006),イタリアのヤドカリも(Gherardi and Tiedemann 2004),パナマのヤドカリも(Abrams 1981),エジプトのヤドカリも(Ismail 2012),日本のヤドカリも貝殻をめぐって争う(Imazu and Asakura 2006 は5種ものヤドカリの貝殻闘争を報告している)。今日も世界のあちこちで,貝殻を奪おうとするアタッカーが,自分の貝殻を相手であるディフェンダーの貝殻にぶつける shell rapping を繰り返している。1回の連続した rapping は「カカカカカカ……」と聞こえるほどリズミカルである。

       では,大量のキャッツアイと共に暮らすニュージーランドのヤドカリたちはどうだろうか。採集してきた個体を実験所の大型水槽に入れておいた。少し経つと,なんとなく音が聞こえる。どうやら貝殻闘争が始まったらしい。そこには,かつん,かつ,ん,……かつ,とでもいうような,攻撃なのか疑わしいほど緩い shell rapping があった。イメージとだいぶ違う。さらに,shell rapping の合間に見られる,攻撃個体が相手の貝殻に自分の貝殻をこすりつける行動(spasmodic shaking)ものったりしている。「ええと,どうすればいいんだっけ,たしか,じぶんのかいがらを,あいてにぶつけて,……あれ,こするんだったかなあ……」という声が聞こえてきそうだ。当事者たちはまじめに闘っていたのかもしれないが,素早い shell rapping を駆使する日本のヤドカリに慣れた身からすると,思わず「がんばれー」と応援したくなるような微笑ましいやり取りであった。スローテンポな貝殻闘争は数十分続いたが,攻撃個体があきらめて相手の貝殻を手放し,終了した。

       彼らの拙い貝殻闘争は,豊富な貝殻資源の裏返しであるように思える。磯場では,空の貝殻も割と見つかった。つまりこの場所は,世界の常識とは正反対の,空き家天国だったと考えられる。そうであれば,コストや時間をかけてまで誰かから貝殻を奪う必要性は低く,誰かから貝殻を奪う必要のないヤドカリだらけであれば,貝殻闘争自体がめったに起こらなくなるはずだ。貝殻闘争が頻発する種では,その “スキル” が取りざたされることもあるが(Briffa and Fortescue 2017),少なくとも Kaikoura のヤドカリたちにとって,闘争をうまくこなす能力はあまり重要ではないようだ。住宅難から解放されたヤドカリたちは “貝殻闘争ベタ” になるのかもしれない。