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    •  臨海実験所から海岸に出て,P. traversi と P. novizealandiae の交尾前ガードペアを探す。そこは,広い岩盤上に無数の溝が並ぶ潮間帯であった。溝には干潮時にも海水がたまり,溝を埋めるように大量の巻貝(スガイ属の一種 Lunella smaragda:図6.4)が転がっていた。本種は分厚い蓋を持つサザエの仲間で,現地では「キャッツアイ(発音はケツァイに近い)」と呼ばれている。その蓋を研磨すると猫の目のような模様が現れることに由来し,街ではケツァイの蓋を磨いて加工したお土産も売られていた(なかなかのお値段だったので購入は断念)。しかし私たちの目当てはケツァイではなく,ヤドカリである。そう思って溝のそばにしゃがみこみ,転がっている貝を片っ端からひっくり返すも,分厚い蓋が目に入る。そう,溝はとにかくケツァイ・ケツァイ・ケツァイ! なのである(空の貝殻も落ちていた)。W 先生のように「ここにヤドカリがいそう」という “ヤドカリセンサー” を持たない私は,とにかく目についた貝を手にとっては,「ケツァイ……」とつぶやいて海に戻す作業を繰り返した。ペアはまったく見つからず,研究を手伝うはずが,何の役にも立てないなぁと情けなさでいっぱいであった。


      図6.4 スガイ属の一種 Lunella smaragda。青く分厚い蓋が目を引く (Council 2017)。

    •  しかし,奇跡が起きた。貝をつまんで持ち上げると,貝がもう1つ持ち上がったのである。まさか,そんな。2つの貝の連結を切らないよう,そっと手に乗せると,確かにヤドカリの付属肢が見えた。「W さん!」,私は立ち上がり,遠くにいる W 先生に叫んだ。「ガ,ガードペア,見つけたかもしれません……」。なんとなく声が震えていたのを覚えている。もしかしたら足も震えていた。何を隠そう,W 先生とサンプリングに来て,先生よりも先にペアを見つけたのは後にも先にもこのときだけである。後から聞くと,初めての調査地ではどんな場所にヤドカリやペアがいるのかわからないので,これまでの経験則よりも,地道に貝をひっくり返すほうがかえって効率が良かったのかもしれない,ということだった。その後,先生もペアを見つけ,研究室に戻った。

       本書でも何度か触れたように,ホンヤドカリ属の交尾前ガードは,ふつうオスが成熟メスの貝殻の入り口をつかんで持ち歩く「かばん」スタイルをとる。しかし,私はここで Hazlett(1966)に描かれていたような,オスがメスの付属肢を直接つかむスタイルのガードを見た(図6.5)。Hazlett のいうようにオスがメスを揺らしているのか,単に引っ張っているだけなのかは判然としなかったが,本当にこんなガードあるんだ……と心底驚き,メスに同情した。というのも,オスにハサミや歩脚をつかまれたメスに「手をつなぐ」といった牧歌的な雰囲気はなく,相手に強引に連行されているようにも見えたのである。通常の交尾前ガードでは,ガードされているメスは基本的には貝殻に閉じこもる(例外もある:木戸ら 2019)。しかし,オスに付属肢をつかまれると,本来は貝殻内に隠せる部分が外にあるので貝殻に閉じこもれず,不安定な体勢で引きずられなければならない。さらに,メスが中途半端に動けるために,オスも動きにくそうに見えた。誰が得するんだこのガード。このときのデータの一部は Wada et al.(2014)にまとめられている。


      図6.5 Pagurus traversi の交尾前ガードペア。通常、本属のオスは小鋏脚のハサミでメスの貝殻の入り口をつかむが、写真のペアたちは、いずれのオスもメスの付属肢を直接つかんでいる。