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太平洋に分布するカイアシ類が北極海に輸送されていることは,実は1930年代には観測されており,輸送された個体は死滅回遊群(移動した先で次世代を残せない,あるいは定着できない生物群)と考えられてきた(Nelson et al., 2014)。しかしながら,4.3 節で述べたように,太平洋産種カイアシ類が継続的に北極海内へ輸送され,その個体数が近年,増加傾向であることもわかってきた(Matsuno et al., 2011)。Ershova et al.(2015)も,1945 年から2012 年のチャクチ海における太平洋産カイアシ類の個体数は,年変動や季節変動は大きいものの,増加傾向であることを示している。また,セジメントトラップ試料の解析により,この太平洋産種は一年を通して北極海に輸送されていることも明らかになった(Matsuno et al., 2014 b)。
動物プランクトン群集は,北極海と北太平洋で出現種が異なるため(図4.7参照),もし今後,海氷の衰退が進み,輸送される太平洋産種がさらに増えれば,北極海に太平洋産種が定着し,生態系の改変をもたらす可能性がある。この定着の可能性を評価するためには,生きた太平洋産種を北極海内で採集し,船上で飼育し,卵を産ませる実験(産卵実験)を行う必要がある。
◇ 産卵実験
そこで私は,2013 年9 月のJAMSTEC「みらい」航海において,北極海で採集された太平洋産カイアシ類Neocalanus flemingeri の成熟した雌成体を船上で飼育し,産卵速度と卵孵化率を観察した(Matsuno et al., 2015 b)。
Neocalanus flemingeri は水中に放出する産卵(free spawning)を行う。一度に400~500 個程度の卵を産み,生涯に4 回ほど産卵する。船上での実験の結果,北極海で採集した19 個体の雌成体のすべてが産卵を行い,そのうち約半数(9 個体)は4 回以上の産卵を行った。1 回の平均産卵数(382 ± 82 個)(図4.15),産卵間隔(11.9 ± 3.7 日),卵の孵化時間(0◦C で5.1 ± 1.2 日)などは,北太平洋で報告されている値と合っていた(Saito and Tsuda, 2000)。
図4.15 北極海内で採集した太平洋産カイアシ類Neocalanus flemingeriの写真と産卵数の時間変化。写真はすべて,船上で生きた状態で撮影している。グラフは,北極海内で採集した19個体の産卵結果をすべてプロットしている。この種は一度に400~500個程度の卵を産み,生涯に4回ほど産卵する。実線はロジスティック回帰の結果を示す。産卵回数を重ねるごとに産卵数が減少していくことがわかる。(Matsuno et al., 2015bより)
唯一異なっていたのは,卵の孵化率が7.5% と極めて低かった(太平洋では93%と報告されている)ことである。北極海における低い孵化率は,未受精卵の割合が高かったことによるのだろう。これは,元来の生息域である北太平洋では水深1000m 前後の深海で成熟,受精および産卵するが,チャクチ海のように浅い(水深50m 前後)環境に輸送されたため,正常な受精を行えなかったことを示唆している(図4.16)。同じ試料中に雄成体が1 個体も出現しなかったことも,この仮説を支持している。
結論として,海氷の衰退により北極海へ輸送される太平洋産カイアシ類は増えているが(Matsuno et al., 2011;Ershova et al., 2015),雌成体の出現個体数が少ないことと,卵孵化率が低いことから判断して,現時点で太平洋産種が北極海に定着することは困難であると考えられる(Matsuno et al., 2015 b)。
図4.16 太平洋産カイアシ類の生活史と,北極海に輸送された太平洋産種の運命。太平洋産種が北極海に多く輸送される時期(8~9月)は,本来の分布域である北太平洋では休眠を開始する時期にあたる。その期間に水深50mの浅い陸棚域に輸送され,水中での密度も薄くなり,うまく受精できないと考えられる。そのため,北極海内で太平洋産種の一部は産卵を行うが,低い孵化率と少ない個体数により,最終的には死滅してしまう。