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次に,動物プランクトン,とくにカイアシ類に起こっている経年的な変化について紹介する。カイアシ類の種を見てみると,実は北極海内部と北極海に隣接する太平洋や大西洋では異なる種が分布している(図4.7)。北極海に分布するCalanus hyperboreus,Calanus glacialis,Metridia longa は他の大洋では出現しない,北極海の固有種である。一方で,太平洋や大西洋に分布する種は北極海内でも採集されることがある。北極海は太平洋および大西洋とつながっており,それぞれの海洋から海水が流入している。プランクトンは遊泳能力の低い生物群集であるため,その海流によってそれぞれの大洋に分布している種が北極海内に輸送される。北極海の入り口ではその密度は高いが,内部へ輸送されていく過程で希釈されていくため,正確な追跡は困難であり,限られた範囲にしか運ばれていないと考えられている。
◇ 亜寒帯性プランクトンの北上
前章で示した広域調査の結果,マイクロプランクトンも動物プランクトンも陸棚域で最も多いこと,太平洋水による栄養塩供給の影響が大きいこと,海域によって構成種および生物生産が大きく異なっていることが明らかになった。したがって,海氷衰退の影響を評価するためには,同じ海域で,異なる海氷の状況(異なる年)で調査を行わなければならない。そこで次に,海氷衰退の前後で,陸棚域(とくに太平洋と北極海が隣接する海域)のプランクトン群集がどのように変化しているのかを調べた。
海氷衰退前の1991 年,1992 年と海氷衰退後の2007 年,2008 年に夏季のチャクチ海において北海道大学附属練習船「おしょろ丸」で採集した動物プランクトン試料を解析した。その結果,動物プランクトンの出現個体数とバイオマスは,1991/92 年よりも2007/08 年のほうが多いことが判明し,このことから海氷面積の減少は動物プランクトンの現存量や生産量という観点では正の効果があると推定された。
クラスター解析の結果,動物プランクトン群集を6 群に分けることができた(図4.8)。各グループの分布は,経年的・水平的に明確に分離しており,1991/92 年は同様の水平分布であったが,2007=08 年は各グループの水平分布が北にシフトしていた(図4.8)。とくに,2007 年には,太平洋水により輸送された太平洋産種が優占する群集D が,チャクチ海南部に見られた。この群集Dは,海氷衰退前の1990 年代に見られた群集A と比べて,太平洋産種の数がおよそ2 倍になっていた(図4.9)。この結果は,2007 年の太平洋水の流入量が例年よりも多かったことに起因しており(Woodgate et al., 2010),太平洋水の増加が元来存在する北極海産種を北へ駆逐する可能性が示唆された(Matsuno et al., 2011)。
図4.8 太平洋側北極海(チャクチ海)における動物プランクトン群集の年変動。1991年,1992年と比べて,2007年は新しい群集が出現していることがわかった。この群集には太平洋から流入してきた太平洋産種が多く含まれていた。(Matsuno et al., 2011より)
図4.9 クラスター解析によって区分された動物プランクトン群集の個体数,種多様度および種組成。もともとチャクチ海の南部に分布していた群集Aと比べて,新しく観察された群集Dは,太平洋産種の割合がおよそ2倍に増加していた。(Matsuno et al., 2011より)
さらに,同試料を用いて光学式プランクトンカウンター(OPC:Optical Plankton Counter)によるサイズ組成の計測を行い,動物プランクトンのサイズに基づくNormalized Biomass Size Spectra(NBSS)を求めたところ,群集D は他の群集よりも生産性が高いことが示された(Matsuno et al., 2012 a)。また別途,十脚類(カニやエビの仲間)の幼生の出現について調べたところ,過去の文献では62°N が最北であったズワイガニ(Tanner crab,Chionoecetesbairdi)の幼生が,500 km も分布域を北に拡げていたことがわかった(Landeiraet al., 2018)。これらのことから,太平洋水の流入量増加は亜寒帯性動物プランクトンの北上をもたらし,チャクチ海における動物プランクトンバイオマスの増加と生産性の上昇につながると考えられた(Matsuno, 2014)。
これらの研究によって,海氷の衰退と動物プランクトン群集との間に直接的な関係はなかったものの,温暖な太平洋水の流入量の変化が,北極海陸棚域の低次生態系の現存量,生産量および種組成に影響を及ぼすことが示唆された。