海と大気の間でやり取りされる物質について一歩踏み込んでみる。いったん海面が海氷で覆い尽くされてしまうと,海氷の生成は鈍化する。また,大気と海洋間での気体交換も制限されてしまう。昔の研究では,海氷は,大気–海洋間の物質循環を妨げる“完璧な障壁”とみなされていた。この認識のもとに極域の海洋におけるCO2 交換の研究が進められてきた。しかし,先に説明したように海氷にはブラインチャネルがあるため,物質の交換が起こりうることがわかってきた。つまり,海氷を気体交換の障壁とみなしてきた時代のCO2 交換に関する全球データは,極域については空白状態だったといえる。これは,海氷域での海洋表層の二酸化炭素濃度を測定することが難しく,理解が進んでいなかったということ(8 節参照)も理由としてあげられる。
最近になって,海氷が形成される厳冬期に南極や北極の海に出向き,成長しつつある海氷上にチャンバーを設置して,海氷を介したCO2 交換量を調べる観測が行われるようになった。ここでチャンバーについて少し解説する。次ページの写真に写っている鍋をひっくり返したような機器がチャンバーである。海氷の上に置いて一定期間内におけるチャンバー内の気体の濃度変化を測定することによって,海氷表面から気体が大気中へ出てきているのか,もしくは海氷表面で気体が海氷に吸収されているのかを評価することができるのだ。チャンバー内の空気を採取して,研究室へ持ち帰って気体濃度を測定するものから,自動的に蓋が開いたり閉まったりして気体の濃度を測定してくれるものまで,対象とする気体成分によっていろんな種類がある。
さまざまな場所や時期にこのチャンバーを使用した観測を実施したところ,海氷がない海域と同様に,海氷域においても気体(たとえばCO2)交換が起きていることがわかった。海氷内にはブラインが存在するが,海氷の成長および融解段階においてブラインに溶存する気体成分の濃度が大きく変化するのである。寒い時期には,ブライン内の真水部分だけが凍るために,取り残されたブラインのなかに溶け込んでいるCO2 濃度は高くなる。一方,海氷が解ける時期は,ブライン周りの純氷部分が融解し,ブラインチャネル内へ融解水が供給されて薄められるためCO2 濃度が低くなる。このように,大気中のCO2 濃度に対して海氷内の濃度が高くなったり低くなったりすることによって,海氷と大気の間でCO2 の交換が起きるのである。海氷上での大気とのCO2 交換量は,海氷がない海域で得られた交換量に匹敵する結果が得られつつある。
またCO2 以外の気体成分についても近年注目されている。たとえば,大気中のオゾン濃度の急激な減少に関与すると考えられている有機臭素ガス(とくにブロモホルム)である。このガスは,海氷表面での化学反応によって海氷内部で大量に生成され,大気に放出されている可能性が議論されている。このような海氷と大気の間で起こりうる物質循環に関する研究が新しい分野として進展している。