サケ属魚類の嗅覚刷込と記憶想起 のメカニズム
海と川を往来する魚のなかで、産卵のために川を遡る魚を遡河性回遊魚と呼びます。その代表格であるサケ属魚類 (Genus Oncorhynchus: 以下、サケ類) は、河川で受精卵から生まれ育った幼稚魚が、春の降海時に河川に特有なニオイを憶え、それが長期間持続する特殊な学習である刷込 (imprinting) を行います。その後、海洋での索餌回遊により成長して成熟が進むと秋に生まれた川(母川)に戻るという母川回帰を行います。この母川回帰の最終段階では、降海時に刷込まれた母川のニオイを想起して母川の識別を行い産卵遡上することが知られ、「嗅覚刷込説」として広く受け入れられています。また、母川情報の嗅覚刷込は、支流レベルの識別も可能であることから降海中に逐次刷込でいること、刷込可能時期には臨界期があること、人工物質も実験的に刷込可能であること等も示されています。サケ類が感知する母川のニオイ分子は、河川やその周囲の植生や土壌に由来する各河川特有の化学組成とされ、近年、電気生理学的研究や行動学的研究により単一のニオイ分子ではなく「アミノ酸組成」が重要であることが示されています。
サケ類の嗅神経系は、前後の鼻孔により外界と通じる鼻窩の底部にその末梢の嗅覚器として,「嗅房」が存在しています。魚類の鼻は、ほ乳類とは異なり咽頭に通じておらず、外界の水が鼻窩内を通過していきます。サケ類の嗅房は、成魚では15〜20枚の嗅板からなり、中心点が吻側にやや偏った放射状に配置しています。各嗅板は二次褶曲という凹凸構造で表面積を増加させ、その表面は嗅上皮と非感覚性上皮で被われています。嗅上皮には、ニオイ受容を行う嗅細胞(嗅覚受容細胞)が存在し、自由表面側の嗅小胞部の形態が異なる線毛性と微絨毛性の嗅細胞が存在します。サケ類の嗅上皮もほ乳類のものと同様に約1ヶ月で基底細胞から成熟嗅細胞へとターンオーバーしていることも明らかにされています。近年、第3の嗅細胞として、クリプト細胞という型のものも報告されています。受容されたニオイ刺激は、1つの嗅細胞から1本脳へ伸びる軸索を伝わり、情報を中枢へ直接伝達します。サケ類ではこの軸索は束となり第Ⅰ脳神経である嗅神経を形成して、嗅覚の一次中枢である嗅球へ投射します。嗅球内で嗅神経は、一次ニューロンである僧帽細胞の樹状突起と糸球体層でシナプスします。嗅球で識別処理を受けた嗅覚情報は、より上位の終脳に伝達され記憶形成されると考えられています。
これまでにも国内外の研究グループにより、ニオイ情報を刷込む降海時期に各種神経伝達物質の脳内濃度が上がることや他の生物種で長期記憶に関連することが知られるシナプス後部の神経伝達物質受容体を構成する分子の一部の遺伝子は,サケの脳において降海時に発現上昇すること等が示されており、サケ類の刷込時期のシナプス可塑性の重要性が指摘されています。この神経伝達物質受容体はシナプス後膜で機能する分子ですが、サケ類の嗅神経系や脳においてシナプス前部で機能する分子については全く不明でした。最近、私たちの研究グループでは、シナプス前部においてシナプス小胞中の神経伝達物質の開口放出の制御に関わる可溶性N-エチルマレイミド感受性因子接着タンパク受容体 (SNARE) 複合体に着目しています。SNARE複合体を構成する主要分子である、シナプトソーム関連タンパク25 (SNAP-25) 、シンタキシン-1 (STX-1) および小胞関連膜タンパク2 (VAMP2)について、母川刷込関連時期でのサケ(シロザケ O.
keta) の嗅覚器官および嗅覚中枢(嗅球+終脳)での遺伝子発現動態を、cDNAクローニングとリアルタイムPCRにより解析しました。
その結果、3種のSNARE複合体構成分子は、ほ乳類の対応する分子とほぼ同様の一次構造(塩基配列)を有しており、アイソフォームの存在も判明しました。刷込期の降海幼稚魚では、嗅細胞数の増加に伴う嗅球糸球体でのシナプス増加を反映して嗅房での各SNARE遺伝子発現が増加し、嗅球でも発現増加が認められました。一方、想起する遡上親魚では、嗅房や嗅球ではすでにシナプス形成を伴う記憶形成は終わっていることから、各SNARE遺伝子の発現レベルは低いが、嗅覚の高次中枢でもある終脳ではSNAP- 25bやSTX-1遺伝子が増加しており、想起にも機能している可能性が示されました。
今後は、より詳細な発現動態(細胞レベルの発現解析を含む)や関連する他分子も分析することにより、刷込や想起に関わる重要な時期や脳部位を明らかにすることが必要となってきます。サケ類の嗅覚刷込機構の解明は、河川に人工ふ化させた稚魚を放流して資源を維持している本種では、「放流適期」を考える上で、サケ類の体内(特に神経系)の状態からそのタイミングを決定するための重要な情報となると考えています。