Topic outline
標本がなくて苦労した例―フサクチゴチの場合
次に標本がなくて問題解決まで苦労した例を紹介する。
コチ科のなかに,インド・西太平洋の広範囲の熱帯・亜熱帯域に生息する Sunagocia otaitensis という種がいる。日本にも分布しており,フサクチゴチの標準和名がある。まだ大学院生だったときに,ある他大学の先生からコチ科魚類の標本を送っていただいたことがあった。そのなかに本種の三宅島産の標本が含まれており(図 3.4),この標本に基づいてこの和名を提唱したのである(Imamura et al.,1996)。
図3.4 三宅島産のフサクチゴチ(国立科学博物館所蔵標本)。 本種の日本初記録となった標本である。種同定の目星はついたが……
この種は上下の唇に皮膚から伸びた小突起を持っており(図 3.5),この特徴はコチ科のなかでは本種のみに見られる特殊な形質である。当時はこの特徴について明確に述べた著作物は多くなかったが,それでもいくつかの文献にはそのことが書かれており(当時は帰属が異なり,Thysanophrys otaitensis とされていた。以下,基本的にこの学名で話を進めていく),比較的簡単に種同定の目星をつけることができた。また,この個体は体が暗褐色で,各鰭に小褐色斑を多数持っていることも特徴的であった。
これはあくまで目星であって,本当の意味での種同定ではない。正確に表現すると,「ある著作物で T. otaitensis とされている種に一致する」となる。この文献の T. otaitensis には一致するが,この種が本当に T. otaitensis である保証はない。もしこの著者の見解が間違っていたら,私も間違えることになる。そのため,正しく種を同定するには,担名タイプと照合しなければならない。分類学以外を研究している人ならそこまではしないだろうし,その必要もないだろう。しかし,分類学者(私の場合,当時は大学院生なので分類学者の卵)は種に適用すべき名前を研究しているので,とくに自分が専門とする分類群の種名については他人の考えにそのまま従うわけにはいかない。
図3.5 フサクチゴチの頭部背面図。上下の唇に皮膚から伸びた小突起が並ぶ。担名タイプが存在しない!?
そこで,次にするのは T. otaitensis の担名タイプの観察である。しかし,本種の担名タイプは存在しない。実は図をもとに公表されたのである。現在はこのようなことをしても適格名にはならないが,1931 年より前であるなら,図と学名を示したり,過去に別の著作物で示された図をもとに記載しても適格名となるのである。
本種は 1829 年にフランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier)によって『魚類史(Histoire Naturelle des Poissons)』の第 4 巻に記載されたが,実はキュヴィエは新種として公表する意図はなかった。第 1 章で紹介した Platycephalus fuscus を新種として公表するなかで,「Parkinson がタヒチで描き,Cottus otaitensis*1 と名付けた種にはこれこれの色彩に関する特徴があり,これは P. fuscus とは異なる」とし,T. otaitensis を P. fuscus との比較に用いたのである。
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*1 これが本種のもともとの学名。もともとの学名を規約では「原綴り(original spelling)」という。種小名は古い時代のタヒチの呼称である Otaite(Otaheite)に因む。
博物画家パーキンソンの図
この文中に出てくる Parkinson とはシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)のことで,ジェームズ・クック船長(James Cook)のエンデバー号(Endeavour)による航海(1768~1771 年)に同乗した博物画家である。彼はエンデバー号がタヒチに立ち寄った際に,未完成ながらも Cottus otaitensis の図を描いている(図 3.6)。
キュヴィエの意図はともかく,彼が T. otaitensis の特徴を記載したことになる。一方,キュヴィエはこの学名はパーキンソンが命名したと述べている。名付け親がパーキンソンならば,彼がこの学名を公表したことになるのでは,と思う人がいるかもしれない。しかし,仮にパーキンソンが名付けたとしても*2,記載を行ったのはキュヴィエである。規約に照らすと,このような場合,命名と記載の両方を行わなければパーキンソンは命名者にはなれず,記載を行ったキュビエが本種を公表したことになるのである。また,この場合,作図に使われた標本がホロタイプとなるのだが,現存しない。おそらく作図の後に廃棄されてしまったのだろう。
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*2 パーキンソンは画家なので,名付け親はパーキンソンでも,もちろんキュヴィエでもなく,別の第三者であると私は考えている。
図3.6 パーキンソンがタヒチで描いたコチ科魚類の未完成の図(ロンドン自然史博物館所蔵資料)。フサクチゴチとスナゴチはよく似ており,この図からではどちらを描いたか判断できない。パーキンソンの T. otaitensis の図は未完成であるが,頭部に棘があり,体は濃褐色で,各鰭にも濃褐色斑が散在していることがわかる。全体的な印象も T. otaitensis と呼ばれていた種に非常によく似ている。しかし,もう 1 種類,これらの特徴を持つ種が知られている。Sunagocia arenicola(スナゴチ)という種で(図 3.7),体は茶~薄茶で,各鰭に多数の斑紋がある点で酷似している。しかし,唇に小突起を持たないので,この特徴さえ観察すれば両種の識別は非常に簡単である。パーキンソンの図にはこの小突起は描かれていないが,作図に使った標本が小突起を持っていなかったから描かなかったのか,小突起はあったがまだ描いていなかったのかはわからない。そのため,この図からはどちらの種が描かれているかを判断できないのである。
図3.7 スナゴチ(西オーストラリア博物館所蔵標本)八方ふさがりの状態だったが,この図がタヒチで描かれているという事実が解決の糸口となった。T. otaitensis と呼ばれていた種は分布が広く,西部インド洋から東はツアモツ諸島まで知られていた。タヒチはこのツアモツ諸島に位置する島である。一方のスナゴチも分布は広いが,東方の分布はフィジーまでで,ツアモツ諸島には及ばない。したがって,両種の分布情報から考えると,パーキンソンが描いた標本は,唇に小突起を持つ種であり,本種に T. otaitensis の学名を適用するのが妥当であると結論した。
このように,分布に関する知見も動員し,なんとか結論を得ることができたのだが,実は一抹の不安もある。もし今後,タヒチで詳細な魚類相調査が行われ,スナゴチが分布することが明らかになれば,またあらためてフサクチゴチに適用すべき学名を検討しなければならない*3。ホロタイプが現存しないために,一応の解決を見るまで苦労した例である(そして一抹の不安を残して……)。
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*3 ここまで読み進めてくださり,分類学の知識が身についた方は,次にとるべき解決策がおわかりになるかもしれない。それは,フサクチゴチの 1 個体を Cottus otaitensis のネオタイプに指定することである。これ以外にできることはなく,しかしこうすることで,種と学名の関係をもとの鞘に収めることができる。たった一つの,しかし最善の策である。
ナップ博士から得た教訓
ところで,これほど面倒な分類学的な問題があったにもかかわらず,どうして唇に小突起を持つ種に T. otaitensis の学名を正しく用いた著作物があったのだろうか。実は当時,私と同じくコチ科魚類を専門とするレスリー・ナップ博士(Leslie W. Knapp)という分類学者がおり,彼がこの学名を使ったのである。ナップ博士はスミソニアン博物館の研究者だったが,2017 年 5 月 17 日に逝去された。そのため,コチ科魚類の分類を専門に研究するのは世界に私だけとなった。
おそらく彼も私と同じ結論に達したものと思われる。しかし,彼が T. otaitensis を紹介した著作物は図鑑だったためだろう,詳しい分類学的な解説は掲載されなかったのである。そのため,「唇に小突起を持つ種= T. otaitensis」という情報は伝わったが,肝心の分類学的背景が抜け落ちてしまい,もう一度私が調査することになったのである。
こんな経験もあり,知り得た新知見は,たとえ小さなものであっても,できる限り公表するように心がけている。