Topic outline
標本があって研究が進んだ例―ナメラオニゴチの場合
標本がきちんと保管されていたおかげで研究が進展していった例を紹介する。
私が大学院生だった頃,コチ科魚類の分類はまだかなり混乱しており,実態がよくわかっていない種も多く残されていた。私の研究テーマは「はじめに」で述べたとおり,「コチ科魚類と近縁群の系統分類学的研究」で,骨格系と筋肉系の比較解剖を行い,系統解析のためのデータを蓄積していた。種分類は直接の研究テーマではなかったのだが,比較解剖を行うためには解剖する個体の正確な種分類が必要である。しかし,なかには新種として公表されて以来,ほとんど,あるいはまったく報告がなく,解剖したくても,種的特徴が十分にわからないので私を含めて誰も分類できず,入手したくてもできない種もいたのである。
そんな種のひとつに,第 2 章で紹介した Onigocia grandisquama(ナメラオニゴチ)がいた。本種はセイシェルのアミラント諸島から採集された 1 個体に基づき,チャールズ・レーガン(Charles T. Regan)によって 1908 年に公表された種である。公表当時は Platycephalus(コチ属)に含められていたが,側線鱗が 30 枚で,眼の下の隆起線が鋸歯状であることが原記載に書かれており,アネサゴチ属(Onigocia)に含まれることがわかる。
この原記載は 14 行にわたっていろいろな特徴が書かれているが,多くのコチ科魚類に共通する特徴もかなり含まれており,これだけではアネサゴチ属魚類を正確には分類できない(図 3.1)。眼上の皮弁(皮膚性の突出物)の有無,虹彩皮膜の形,眼の下の隆起線の欠刻(切れ込み)の有無などの,当時はまだ分類形質として認識されていなかった重要な特徴が含まれていないのである。
また,原記載がこのような状況なので,ここから本種を正しく同定することは不可能だったためか,原記載以降の報告例が当時は皆無だった。
図3.1 Onigocia grandisquamaの原記載(Regan,1908)ロンドン自然史博物館のホロタイプ
原記載が不十分な場合,その種の特徴を理解するには,原記載に使われた標本,つまり担名タイプを観察するしかない。この種は 1 個体,つまりホロタイプに基づいて公表されている。幸いこのホロタイプはロンドン自然史博物館(図 3.2)に保管されており,お願いしたところ借用させてもらうことができた(図 3.3)。
観察の結果,本種は 1 枚の眼上皮弁を持ち,虹彩皮膜は短くて分枝し(コラム「コチ科魚類の虹彩皮膜」図 1 左下のアネサゴチと同じタイプ),眼の下の隆起線に欠刻がないことなどが初めて明らかになった。さらに,原記載に書かれている鰭条数などの計数形質もおおむね正しいことがわかり(古い時代の記載では数え間違いが散見されるので,絶対に研究者自身が確認する必要がある),最終的に,本種はアネサゴチ属の有効種であることや,どのような特徴で定義できるかが確認できたのである。図3.2 ロンドン自然史博物館(展示施設外観)
図3.3 Onigocia grandisquamaのホロタイプ(ロンドン自然史博物館所蔵標本)新標準和名を提唱
ホロタイプの観察によって O. grandisquama の特徴が理解できたおかげで,本種はいろいろな海域から採集されていたことがわかってきた。現在では,アミラント諸島(セーシェル),モーリシャス,ソマリア,アラビア海,ノースウェストシェルフ(オーストラリア),チモール海,サペ海峡とパンジャン島(インドネシア),セラム海,サンゴ海,チェスターフィールド島,タイランド湾を含むインド・西太平洋の広い範囲から知られるに至っている。アラビア海以外は私が関わった研究で明らかになった分布である。また最近,徳島県から採集された標本があり,日本にも分布することが判明し,本種に対して新標準和名「ナメラオニゴチ」を提唱したのである(今村・篠原,2019)。
現在までに 50 個体以上のナメラオニゴチの標本を同定し,それらのデータを持つに至っている。そのため,いろいろな特徴で幅広い変異を持つこともわかり,どのような種であるかがかなり明確に理解できるようになった。
このように,たった 1 個体のホロタイプが観察できたおかげで,当時は実態がわからなかった種のいろいろな問題が解決でき,研究が進展していったのである。