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◇休眠期細胞は珪藻類のタネ
北極海において,一次生産のほとんどを担っているのは珪藻類である(図1.6 参照)。珪藻類には,冬期に環境条件が悪くなる(栄養塩不足や日射不足)と,休眠期細胞を形成する種が存在している(Hargraves and French, 1983; McQuoid and Hobson, 1996)。休眠期細胞は通常の細胞の状態(栄養細胞という)とは異なり,沈みやすい形となり,細胞壁が厚くなる。その結果,水中から海底へと沈降し,堆積していく。そして,春季に環境が好転すると発芽し,増殖を再開する(図7.1)。そのため,休眠期細胞は言わば珪藻類のタネと考えることができる(Tsukazaki et al., 2013)。
図7.1 結氷域における珪藻類の生活史。増殖に適さない冬期は,海氷中か海底で休眠期細胞として生き延びる。(Tsukazaki et al., 2013を基に作成)
北部ベーリング海はベーリング海と北極をつなぐ重要な海域である。季節海氷域であり,水深は50m と浅い。一次生産が高いことも知られており,水柱で増殖した珪藻類のおよそ半分が水中の動物プランクトンに摂餌されずに海底へ沈降する(Grebmeier et al., 2006)。これらの特徴から,北部ベーリング海の海底堆積物中には多くの珪藻類の休眠期細胞が蓄積されていると考えられるが,詳細は不明であった。
一方で,この海域は海氷の年変動が顕著であり,海氷融解の変化に合わせて植物プランクトンブルームの時期が変化することが衛星観測から報告されている(Fujiwara et al., 2016)。しかし,そのときに植物プランクトン群集内で種組成が変化しているのかはわかっていない。海底堆積物中の珪藻類のタネを調査することにより,調査前から調査時までの水柱でどのような珪藻類が多く増殖していたのか,そしてその組成が海氷や環境とどのように関係しているのか解明できるのではないかと考え,研究に取り組んだ。
◇ 氷が溶けると植物プランクトン群集は変わる?
調査は,2017 年7 月と2018 年7 月に北海道大学水産学部附属練習船「おしょろ丸」に乗船して,北部ベーリング海で実施した。堆積物試料を採取し,Most Probable Number Method(MPN 法)によって堆積物中に含まれる休眠期細胞密度を推定した。MPN 法とは,まず堆積物を植物プランクトン用の培地で10 倍毎の段階希釈して培養する。そして培養後,それぞれの画分からどの種が出現するか調べることにより,堆積物中の休眠期細胞数を見積もる実験方法である。加えて,衛星観測による海氷密接度のデータを取得し,密接度が最後に20% 以下になった日を海氷後退日と定義した。
研究の結果,休眠期細胞群集は,セントローレンス島の南側海域において,細胞密度と種組成に大きな年変化が見られた(図7.2 の左と中央)。2017 年には,海氷内で増殖するアイスアルジーのFragilariopsis/Fossula 属が多かったが,2018 年には主に水柱内で増殖するThalassiosira 属が高密度であった。
図7.2 北部ベーリング海の海底堆積物中における,珪藻類休眠期細胞の分布と種組成。右の図は,海氷が消失した日を色で示している。(Fukai et al., 2019より)
海氷の後退時期に注目すると,2017 年と2018 年で大きく異なっていた(図7.2 の右)。とくにセントローレンス島の南方海域では,2017 年は4 月中旬から5 月初旬にかけて海氷が後退していたのに対し,2018 年は3 月下旬にはすでに後退していた。この海域では,日長が長くなる4 月から5 月にかけて,アイスアルジーが海氷のなかまたは下でとくに増殖することが知られている。
これらのことから,2017 年はアイスアルジーの増殖に十分な光環境となる4 月中旬であっても海氷が存在していたため増殖できたのに対し,2018 年は海氷の後退時期が非常に早かったために増殖できず,代わりに水柱における珪藻類ブルームの規模が拡大したと考えられた。このように,海氷の融解時期が異なることによって,その後の植物プランクトン群集の組成が変化することが初めて明らかになった(Fukai et al., 2019)。
この海底堆積物には,珪藻類だけでなく有害で有毒な渦鞭毛藻類のタネ(シストと呼ぶ)も含まれている。ベーリング海からチャクチ海にかけての広域調査の結果,日本沿岸の赤潮発生海域よりも高密度でチャクチ海内に分布していることが判明した(Natsuike et al., 2013)。しかも,近年の温暖化と南方からの海流の強化が相まって,北極海内でも赤潮発生の実態解明が求められている。このように,海底堆積物中の休眠期細胞を用いた研究は,浅い陸棚域が広がる北極海において有効であり,今後も調査を続けていく。