Topic outline
【トピック】新種発見のエピソード―ワニゴチの場合
日本産コチ科魚類にワニゴチという種類がいる(図1)。全長50cm以上にもなる大型種で,食用としても利用され,南日本から南シナ海にかけて分布する。本種は従来はInegocia guttataという学名で呼ばれていた(もともとはPlatycephalus guttatusとされていたが,のちにInegociaトカゲゴチ属に移された。第2章で説明したように,両属で性が異なるため(Platycephalusは男性,Inegociaは女性),種小名も男性形のguttatusから女性形のguttataに変化している)。この学名はフランスの博物学者ジョルジュ・キュビエが1829年に命名したものである。
図1 ワニゴチ(高知大学理学部所蔵標本)
- Inegocia guttataのホロタイプ(図2)は日本から採集され,現在はドイツのベルリンにあるフンボルト大学自然史博物館に収蔵されている(図3)。この博物館には他に7種のコチ科魚類のタイプ標本が収蔵されているため,2006年にこの博物館を訪問し,これらの標本を観察する機会を得た。I. guttataのホロタイプを観察し、計測形質などのデータをコンピュータに入力し,過去に観察した他のワニゴチの標本データと比較したところ、一致しないデータがあることに気がついた。ホロタイプの吻長(眼窩の前縁から上顎の先端までの長さ)が他の標本より明らかに短いのである(図4)。測り間違えたか,測った数値を読み間違えたと思い,もう一度測り直したのだが,結果は同じだった。したがって,これは私の誤りではなく,このホロタイプが実際にこのような特徴を持っていることが確認できたわけである。
図2 Platycephalus guttatusのホロタイプ(フンボルト大学自然史博物館所蔵標本)。この標本はイネゴチと同種であった。
図3 フンボルト大学自然史博物館
図4 ワニゴチ(●)とイネゴチ(●)の吻長の比較。黄色の星はPlatycephalus guttatusのホロタイプ。
また,この標本は剥製にされており,体表にニスが塗られているために確認が難しかった部位もあったため,改めてていねいに観察したところ,鰓蓋の下方に間鰓蓋骨皮弁(interopercular flap)と呼ばれる皮弁がないこと,体前部の側線鱗に1個しか開孔がないなど,ワニゴチとは異なる特徴を持つことも新たに確認できた(ワニゴチでは1枚の大きな間鰓蓋骨皮弁があり,側線鱗の開孔は2個)。これらの特徴を持つ日本産種はイネゴチCociella crocodilaしかいない。そこで改めてホロタイプの吻長のデータをイネゴチの標本のデータと比較すると,両者はよく一致することもがわかった(図4)。また,後述する体の色彩もイネゴチによく当てはまる。
これらの結果から言えることは一つである。すなわち,I. guttataのホロタイプは実はイネゴチであり,よってI. guttataとC. crocodilaは同種であり,シノニム関係にあるということである。学名がシノニム関係にある場合,古い名称に優先権があり,そちらが使用されるべき名称となるが,C. crocodilaの命名者もキュビエで,I. guttataと同じ著作物に新種として記載している。第2章で述べた通り、このような場合は第一校訂者がどちらかを選ぶことになる。イネゴチの学名として長らくC. crocodilaが使われてきたので,これをC. guttataに変更すると混乱が生じてしまう。つまり,規約の言葉を借りると,C. crocodilaのほうが「命名法の安定と普遍性に最もよく寄与する学名」となるのである。そこで,私と共著者は第一校訂者としてイネゴチに対してC. crocodilaを適用することにしたのである(Imamura and Yoshino, 2009)。
さて,そうなるとワニゴチが宙に浮くこととなる。ワニゴチの学名としてI. guttataは使えないし,これまでの自身の研究からワニゴチに対して与えられた他の学名はないことがわかっている。つまり,ワニゴチは適用すべき学名のない,新種となるのである。そこで,ワニゴチに対してはInegocia ochiaiiという学名を与え,学術論文として発表することとなった(Imamura, 2010)。種小名のochiaiiは,日本産コチ科魚類の分類学的研究で著名な研究を残された落合明博士に因んだものである。食用にも利用されている大型種が実は新種だったとは。異国の地でただ驚くばかりであった。
では,なぜワニゴチに対して誤ってI. guttataの学名が用いられてきたのだろうか。私は「犯人」はコンラート・ヤコブ・テミンク(Coenraad Jacob Temminck)とヘルマン・シュレーゲル(Hermann Schlegel)の2人だと考えている。この2人は知らなくても,シーボルトの名前を知っている人はたくさんいると思う。テミンクとシュレーゲルは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold)が編纂した『日本動物誌(Fauna Japonica)』の魚類パートを執筆したオランダ人研究者である。
彼らは1843年に同書のなかでPlatycephalus guttatusを記載する際,1枚の正確な図もあわせて掲載した(図5)。種小名のguttatusは「斑紋のある」という意味である。イネゴチでは体の前半部に小さな黒色斑が散在しており(図3),これがguttatusの名前の由来となったものと思われる。しかし,ワニゴチでも体じゅうにより小さな黒色斑が密に分布している(図1)。したがって模様だけで言えば,ワニゴチのほうがより「guttatus」である。そしてテミンクとシュレーゲルが掲載した記載と図は,体じゅうに小さな黒色斑が密に分布するワニゴチに基づいたものだったのである。彼らはワニゴチのこの特徴を観察し,「多くの黒色斑を持つこの種こそまさにguttatus!」と勘違いをしてしまい,さらに悪いこと(?)に,この図がとても正確に描けていたため,これを見たのちの研究者たちに間違ったguttatusの情報が伝わり,ワニゴチ = P. guttatusと誤解されてしまった,と私は推測している。図5 『日本動物誌』にPlatycephalus guttatusとして掲載された図(北海道大学大学院水産科学研究院図書室所蔵図書)。体の黒色斑の状態から容易にワニゴチと判断できる。