Topic outline
【コラム】優先権が逆転した例―トカゲゴチの場合
条件が厳しいため,優先権をひっくり返すのはなかなか難しい。しかし,私自身の研究で,優先権を逆転させた例があるので紹介したい(Imamura and Nagao, 2011)。
コチ科魚類の中にトカゲゴチInegocia japonicaという種類がいる(図1)。本種は1829年にフランスの博物学者のジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier)によって新種として公表された。トカゲゴチはインド,スリランカ,オーストラリア,フィリピン,中国,日本などを含む東部インド洋と西部太平洋の広範囲に分布する普通種である。私はこれまでベトナム,タイ,フィリピン,インドネシア,マレーシアなどの東南アジアの国々でサンプリングを行った経験があるが,必ずといっていいほど本種は採集されるし(図2–3),日本国内やオーストラリアの主要な博物館でも多くの標本が保管されているのを確認している。いって見れば,「とてもありふれた種」なのである。コチ科魚類の研究を進めるうちに,トカゲゴチと同種と思われる種が1872年にマールテン・ハウトインによって日本からSilurus inermisとして公表されていることが分かってきた。私が初めてこのことに着目したわけではない。アメリカの魚類学者であるデビッド・スター・ジョルダン(David Star Jordan)とバートン・ウォーレン・エバーマン(Barton Warren Evermann)が,Silurus inermisはPlatycephalus inermis(Platycephalusはコチ属の学名)として有効であることを1902年に示していたのである。Silurusはナマズ属の学名であり,もともとは本種はナマズの仲間と認識されていたのを,彼らがコチ類に含めたのである。実際にハウトインが記述した本種の特徴には,頭がよく縦扁すること,体の鱗が小さいこと,背鰭が2基あること,ひげがないことなどが書かれていた。これらはコチ科魚類によく一致するが,ナマズ類とは多くの点で異なる(ナマズ類も頭は縦扁するが,鱗はなく,背鰭は1基で,ひげがある)。ジョルダンとエバーマンは本種をコチ科に含めた理由を明記していなかったが,その判断は正しかったことが確認できたわけである。さらに,ジョルダンとロバート・アール・リチャードソン(Robert Earl Richardson)は1908年にSilurus inermisがトカゲゴチと同種である可能性を示唆した。ハウトインの記載を検討した結果,若干の不一致はあるものの,体が赤茶色であり,2つの背鰭と尾鰭が褐色〜黒色の小班を多数持つ点で,日本産コチ科魚類の中ではトカゲゴチのみとよく一致することが分かった。そのため,両者は同種であるという結論にいたったのである。
図2 プーケット海洋生物センターで開催された魚類分類学のワークショップで採集されたトカゲゴチ
図3 タイランド湾の船着場に水揚げされたカゴいっぱいのトカゲゴチ
一方、Silurus inermis Houttuyn, 1872はSilurus inermis Linnaeus, 1766の新参一次同名であり,1789年にヨハン・フレードリヒ・グメリン(Johann Friedrich Gmelin)によってSilurus imberbisの置換名が与えられている(同名と置換名については本章中の節「種は違うけれど名前は同じ―同名関係」を参照してほしい)。このままでいけば,トカゲゴチの学名はInegocia imberbis (Gmelin, 1789)となるところだが,imberisの名前は少なくとも1899年以降から有効名として使用されたことはない。また先述の通り,トカゲゴチは広い範囲から知られる普通種であるため,Inegocia japonicaが有効名として使用された回数は非常に多い。この研究を行っていた2010年から直近の50年間(つまり1961〜2010年の期間)の中で探してみると,少なくとも17組の著者によって26編の著作物中で有効名として使用されていた。このように,本件では規約の要件をすべて満たすことが確認できたため,優先権の逆転によって本来は新参名であるInegocia japonicaがトカゲゴチの有効名となったのである。