Topic outline
概要
現在、農業では様々な品種が作られ利用されてきています。これを品種改良と呼びます。これは、植物の個々の細胞が様々な細胞に分化できる「分化多能性」をもつことと関係があります。品種改良の方法として、遺伝子の改変(遺伝子導入やゲノム編集)、染色体構成の改変、核細胞雑種の利用、そしてキメラ個体の誘導などがあります。これらの方法は総合して「発生工学」と呼ばれています。発生工学の手法で改良された植物細胞は、培養により個体へと変換され、品種として利用できるのです。一方、動物はどうでしょうか。動物の細胞一つを培養して個体を作り出すことは、現状ではできません。どうしても配偶子(卵/精子)を作成し、受精という過程を経る必要があります。これでは、有用な遺伝子を持つ個体がいても、その配偶子を経なければその遺伝子を利用できないことになってしまいます。もちろん、核移植という方法を用いて個体を作り出せますが、成功率は非常に低いのです。ところが、卵や精子に分化する生殖系列の細胞(ドナー)を、別の個体(ホスト)に移植した「生殖系列キメラ」を作り出すと、ドナーの配偶子を作り出せることがわかってきました。この「生殖系列キメラ」という方法を用いて、魚類の品種改良ができる可能性があります。北海道大学の七飯淡水実験所では、様々な魚類を材料として用いた発生工学の研究に取り組んでいます。
一つの細胞である受精卵から様々な細胞が生まれる機構とその利用
受精卵は一つの細胞です。これが分裂を進めると細胞数が増えるだけではなく、性質の異なる様々な細胞が生まれます。このような異なる性質はどのような機構で生み出されてくるのでしょうか。発生工学の研究を行うには、実際の受精卵からどのような過程を経て体が作られてくるのかを理解しておく必要があります。このような機構が明らかになれば、バラバラにした細胞からも個体を作り出せる可能性があるかもしれません。実際の体には、体を作っている細胞「体細胞系列」の細胞と、次世代の配偶子を生み出す「生殖細胞系列」の細胞があります。
体細胞系列の分化
魚類の受精卵は、2倍、4倍と指数関数的に細胞を増やし約1000細胞ほどの胞胚ができます。この時の細胞は将来どのような細胞になるかは決まっていません。ですから、一つの胚の細胞を削って減らしても、他の胚から細胞を持って来て移植しても正常に発生が進みます。(図1.キンギョの胞胚を切断して入れ換えた胚. 図2.胚盤の細胞を増やしたり減らしたりした胚.)
図1.胞胚期の胚盤の移植の図。A)赤く染色した胚と未染色の透明な胚。B)染色と未染色の胚盤の上側を切断。C)切断直後。D)切断した部分を入れ換えて移植した直後。E)修復された胚盤。
図2.図1と同様の移植だが、一つの胚盤全体を別の胚の動物極側に移植した移植胚。下は、左から移植胚、胚盤の上部を切除した胚、無処理の胚、を示している。どれも正常に発生する。
この胞胚期の胚盤の細胞の分化の方向性を決めるのは、卵黄側からの誘導シグナルです。卵黄といっても、受精卵が分裂する過程で、卵黄側にも核が入り込んでいますので、卵黄細胞と呼ばれます。後期胞胚期の胚盤を卵黄細胞から切り離し、180°水平に回転してもう一度卵黄細胞に再結合すると、この胚からは2つの体を持った個体が多く生まれて来ます。これは、切り離す前に体を作るようになった細胞群と、切り離して結合させた後に体を作るようになった細胞群の両方から体ができるからです。(図3.キンギョの後期胞胚の胚盤を切り離して180°回転させて再結合した胚から生じた2軸の個体.)
図3.A-Eは胞胚期の胚盤を卵黄細胞から切り離し、水平に180°回転させて再結合した胚。A-Dは中期胞胚期、BとEは後期胞胚期に手術を行っている。Fは360°回転させ再結合した胚、Gは無処理の胚。
このような卵黄細胞が持つ体を誘導する力は、受精直後の胚に起源があります。受精直後の胚を核と細胞質のある動物極側と卵黄が多く含まれる植物極側とを半分に切断すると、細胞は増加し長く伸び、いくつかの細胞は生じるものの、胚体は形成されなくなります。さらに動物極側に近い位置で切断すると、細胞の塊だけになってしまいます。すなわち、受精直後の卵の、切り離された植物極側の部分に、将来の個体を形作る因子が局在していることを意味します。
図4.2細胞期の胚を細いテグスで押し切ると、細胞質を持った動物極半球と、卵黄の多い植物極半球に切り分けられます。
図5.初期の卵割期に動物極半球を切り出し、培養すると正常な形の胚にはならず、回転相称の胚になってしまいます。
図6.1細胞期に細胞質のみを切り出すと、細胞塊のみの胚(KとL)になってしまいます。
生殖細胞系列の分化
魚類の生殖系列の細胞は、卵細胞質の中に蓄えられた「生殖細胞質」と呼ばれる特殊な細胞質を取り込んだ細胞から生じます。生殖細胞質は、卵割の際、初期卵割溝の両側に集合します。細胞分裂が進み、この細胞質を取り込んだ細胞のみが生殖細胞へと分化します。初期の生殖細胞は始原生殖細胞(primordial germ cell:PGC)と呼ばれます。生殖細胞質にはタンパク質やmRNAが含まれています。この生殖細胞質を物理的に取り除いたり、mRNAが翻訳されてタンパク質になるのを阻害したりすると生殖細胞がなくなり、不妊の個体となってしまいます。また、この生殖細胞質を模した人工的なmRNAを受精卵に顕微注入すると、生殖細胞質に蛍光を与えたり(図8)、生殖細胞を光らせたり(図9)することができます。