ヤドカリには闘争を介した個体識別能力がありそうだ。しかし,ヤドカリが争うのは貝殻だけではない。オスにとっては成熟したメスも激しい闘争の引き金となる重要な資源である。にもかかわらず,この時点でオス間闘争を介した個体識別能力の研究は存在しなかった。そこでテナガを対象に「オス間闘争における既知個体の識別」の世界初の実証を目指し,博士1年の秋が始まった。
生き物が “闘争相手を個体識別しているか” を検証するには,「相手を覚えるための実験」(1回目の闘争)と,「相手を覚えているか確かめるための実験」(2回目の闘争)が必要である。さらに “既知/未知の個体を識別している” ことを実証するには,「既知の個体に対する行動」と「未知の個体に対する行動」が違うことを示さなければならない。これら一連の実験は少々複雑で,夜のサンプリングを終えた真夜中の頭と体にはいろいろと厳しい。そこで今回は,当時4年生だった後輩3人をお手伝いに任命し,大学で待機してもらった。一方の私は W 先生と夜の海へ。各日の “採れ” 高に当たり外れはあるものの,1度だけ W 先生より1ペア多く採集できたこともあり,交尾前ガードペアの採集スキルは確実に向上していた。誘拐したテナガのペアを抱えて実験室へ戻る。お待たせ後輩たち。これが終われば帰れるぞ。
実験ではまず,3つあるいは2つのペアをランダムに組み合わせた。3つ組では最小の,2つ組では小型のオスからメスを外し,観察対象の単独オスとした。残りのオスはすべてガードオスとする。1回目の闘争では,小型の単独オスに大型オスのペアと 10 分間闘争させて,単独オスに負けてもらった。サイズ上不利な単独オスはふつうガードオスからメスを奪えないので,このオス間闘争は,自分を退けた相手を覚えるための,いわば「やらせ」である(ガードオスからメスを奪えてしまった単独オスは,その後の実験から抜いた)。次に,個体を分けて1時間静置した。最後に,2回目の闘争として,1回目の闘争で負けた単独オスを,①未知の闘争経験なし unfamiliar na¨ıve 群(1回目の闘争に参加していないガードオス。3つ組の余り),②未知の勝者 unfamiliar winner 群(1回目の闘争で別の単独オスを退けたガードオス),③既知の勝者 familiar winner 群(1回目の闘争でその単独オスを退けたガードオス)のいずれかと遭遇させた(図5.3)。