当時,私が指導を希望していた W 先生(行動生態学の担当教員。現在の上司)は,ヤドカリ,イソギンチャク,ワレカラ(図3.1)のいずれかで卒業研究を行う方針を出していた。なお,ワレカラ skeleton shrimp とは海藻などに付着して生活する,カマキリのような手(第二咬脚 gnathopod)を備えた細長い小型甲殻類である(青木・畑中 2019)。メスは育房内で卵を孵化させて,幼体を体外に産仔する。私はこのときはじめて「ワレカラ」という生き物を知ったが,わが国では藻塩をつくるための海藻とともに水揚げされたことから,和歌に詠まれるほど人々との歴史が長く,水産業界では有用魚種の餌としても広く知られている(蒲原ら 2011)。
実は私はヤドカリではなく,イソギンチャク sea anemone の研究を希望して研究室に配属された。コモチイソギンチャク Cnidopus japonicus に憧れたのである。本種は「子持ち」の名のとおり,親が胚(子ども)を自らの体に付着させ,小さなイソギンチャクに成長するまで保持する(図3.1b)。ある程度成長した子どもたちは,親の体表面からぺろりと剥がれて独り立ちする。配属前の私は,本種の特徴的な生態に夢中だった。……が,もし当初の希望どおりにイソギンチャクを研究していたら,いまの私はいないし,本書も永遠に執筆されることはなかった。
W 先生に対象種の希望を話し,意気揚々と研究室に配属された私であったが,ほどなくして先生より「ごめん,イソギンチャクはあきらめて」と伝えられた。聞けば,イソギンチャクの卒論をサポートする予定だった修士の S 先輩から「一緒に研究する後輩はいりません」と言われたらしい。それもそのはず,S 先輩は丸一年をかけて,調査地点の選定から研究手法に至るまでを独自に確立した,本研究室におけるコモチ研究の第一人者であった。そこに現れたコモチ希望の新たな4年生(つまり私)は,修士で卒業する先輩の研究を引き継ぐ役回りといえば聞こえはいいが,要するに苦心の末に開拓されたコモチ研究にただ乗りする,ずるい存在以外の何物でもない。
行動生態学には「生産者–たかり屋ゲーム producer-scrounger game(Barnard and Sibly 1981)」という,この状況によく合致するトピックがある。生産者 producer は自ら資源を発見し獲得する個体,たかり屋 scrounger は自ら探索することはなく,生産者が発見した資源にただ乗りする個体である。資源の獲得はどちらにとっても利益となるが,たかり屋は生産者よりもコストをかけずに(捕食者に見つからない,疲労しない,時間を無駄にしないなど)資源を獲得できる。たとえば,誰かが発見した餌に周囲の個体が次々と群がる様子を想像してほしい。ただし,たかり屋は生産者がいないと資源を得られない。先輩はコモチイソギンチャクという魅力的な研究対象を独力で開発した “生産者”,私は(意図的ではないにしろ)その努力を利用しようとする,まさに“たかり屋”……。先輩が気分を害するのは当然である。
そんなこんなでイソギンチャク研究ができなくなった私は,ヤドカリかワレカラの二択を迫られた。私が愛着を持てる生き物には,肉眼で観察できるサイズ感も重要である。図3.1 c,d にあるように,ワレカラ類はナナフシ然とした体に巨大なカマ状の第二咬脚という,昆虫好きな私の心を大いに刺激するフォルムを持つのだが,いかんせん最大でも3 cm ほどしかない体長がネックになった。彼らの行動を観察するには実体顕微鏡が不可欠で,何度か挑戦してみたものの,顕微鏡下でワレカラを追いかけるのは難しかった。したがって,ヤドカリは消去法によって選ばれたようなものである。
紆余曲折を経て,人生初となる研究対象種はヨモギホンヤドカリ Pagurus nigrofascia に決まった。1996 年に新種記載された比較的新しい種である(Komai 1996,図3.1a)。種小名のnigrofascia は「黒い輪」を意味するラテン語で,歩脚にある黒い横縞に由来し,雅な和名は当研究室の先輩がその薄緑色の体から命名したものだとか。特徴として,卵の孵化に9か月もかかること,夏季に著しく活動性が下がる「夏眠 aestivation」を示すことが挙げられる(Mishima et al. 2021)。三島・逸見(2012)は本種を「準絶滅危惧(現時点で絶滅危険度は小さいが,生息条件の変化によっては絶滅危惧に移行する可能性のある種)」としている。しかし 2012 年当時,私の周囲では「日本のどこかには絶滅を危惧する人もいるんだな」と話題になったくらい,函館湾では普通種であった。
図3.1 卒業研究の対象生物たち。(a) ヨモギホンヤドカリ Pagurus nigrofascia 、(b) コモチイソギンチャク Cnidopus japonicus (体表に複数の子が付着。矢印の先は比較的わかりやすい。撮影: りった)、(c) キタワレカラ Caprella bispinosa のオス (矢印は第二咬脚,撮影: 大友洋平)、(d) キタワレカラのつかまらせ型子守をするメスとその子 (撮影: 大友洋平)。一部のワレカラでは、母親が産仔後も継続して、子を体につかまらせる「つかまらせ型 cling-to-mother type」や、母親が子を周辺に定位させる「はべらせ型 stay-around-mother type」の保護を示す (Aoki and Kikuchi 1991)。