Perfilado de sección

    •  ある個体を別の個体と区別する認知能力 cognitive ability を個体識別能力と呼ぶ。脊椎・無脊椎動物を問わず,生き物が他個体と社会関係を構築する上で根幹を成すコミュニケーション能力の1 つであり,主に血縁や繁殖パートナー同士,そして敵対関係にある個体間で実証されてきた(Tibbets and Dale 2007)。個体識別が成立・継続している間は,相手を識別している個体(受信者 receiver)は「識別対象の個体(送信者 sender)が独自に持つ特徴(識別キュー recognition cue)」と「送信者に関する特異的な情報」を結び付けて学習・記憶し,将来遭遇する際にこれらの情報を利用して行動を調節する(図5.1:Tibbets and Dale 2007)。個体識別が成立すると,攻撃行動が減少することが多い。なお,キュー cue とは受信者が感知して利用する情報を指す(Maynard-Smith and Harper 2003)。


      図5.1 敵対関係における個体識別のイメージ。灰色の個体は黄色の個体と過去に闘争し、敗北した。黄色の個体と再び闘争しても勝ち目が薄いのであれば、この個体との闘争は避けたほうが余計なコストを払わずに済み、有利である。このような状況では、黄色の個体独自の特徴 (識別キュー) とその個体に関する特異的な情報 (自分よりも強い) を結び付けて黄色の個体を識別し、将来の闘争を回避する個体識別能力が進化しうる。

    •  識別能力は必要とされる認知能力の高さによって,「クラスレベルの識別  class-level recognition」「真の個体識別 true individual recognition」に大別されている(Gherardi et al. 2012)。「クラスレベルの識別」は,近隣の個体/見知らぬ個体,優位/劣位,繁殖パートナー/パートナーではない個体,血縁/非血縁など,主に “クラス” と呼ばれる2つの社会的なカテゴリに基づく他個体の識別である(二値的な認知 binary recognition:Wiley et al. 1991)。片や「真の個体識別」は,特定の個体を集団のあらゆる他個体から識別できる,非常に高度な識別能力である(図5.2)。

       クラスレベルの識別の1 つに「既知個体の識別 familiar recognition」がある。これは,遭遇相手が “既知の個体 familiar” か,初めて遭遇した “未知の個体 unfamiliar” かを識別する個体識別能力を指す。既知個体の認知は「その個体との遭遇経験があるかないか」のみに基づく識別なので,識別した相手が属する社会カテゴリを特定する必要はない。しかし,たとえば繁殖パートナーをそのほかの個体から識別するためには,そのパートナーと以前から遭遇し,既知の関係性 familiarity を構築していることが不可欠である(つまり,相手に関する学習が必要)。そのため,既知個体の識別は,クラスレベルあるいは真の個体識別の第一段階とも考えられている(Gherardi et al. 2012)。一方で,クラスレベルの識別には,単なる雌雄の区別など,相手に対する学習が不要な識別も含まれるため,既知個体の識別を第3の独立した個体識別能力だと考える研究者もおり(Chak et al. 2015 など),学術用語としても familiar recognition は class-level recognition より一般的である。本書もこれに倣い,既知個体の識別をクラスレベルの識別とは異なる個体識別能力として扱う(図5.2)。


      図5.2 各個体識別能力のイメージ。本書では、個体識別を3つに大別する(既知個体の識別をクラスレベルの識別に含める場合もある: 本文)。クラスレベルの識別と既知個体の識別においては、属するカテゴリ ("クラス") が同じである複数個体 (赤の2個体) を区別しない。これら2つの個体識別と比べ、真の個体識別には非常に高度な認知能力が必要となる。

    •  無脊椎動物と侮るなかれ,個体識別能力が報告された十脚甲殻類は多い。たとえば,アリやハチのように1 個体の女王と多数のワーカーで構成されたコロニーで生活する真社会性のユウレイツノテッポウエビ Synalpheus regalis は,同じコロニーのメンバー nest mate とよそ者 stranger を識別し,よそ者とは時に殺し合うまで闘う(クラスレベルの識別:Duffy 1996)。また,シャコ類では巣穴に充満する「におい」が,ザリガニの一種 Cherax destructor では「顔」が,シオマネキの一種 Austruca mjoebergi(原著では Uca mjoebergi)では「行動パターン」が,過去の闘争相手を識別するキューだと考えられている(既知個体の識別:Caldwell 1979;Van der Velden et al. 2008;Booksmythe et al. 2010a)。甲殻類が真の個体識別もできるかはわかっていないが(Gherardi et al. 2012),真の個体識別の前提となる “複数の既知個体の識別” については,すでに実証例がある。たとえば Aquiloni et al.(2008)は,アメリカザリガニ Procambarus clarkii のメスが,配偶者選択する前に選択対象となるオス同士の闘争を観察した場合,闘争で勝利したオスを選ぶことを報告した。メスにとって闘争していた2個体のオスはいずれも既知の個体に当たるが,本種のメスは,このオスたちをさらに別々の個体(闘争に勝利したオス/敗北したオス)として識別できると期待される。