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    •  修士に進学した。「卒業研究を国際誌に投稿する」約束を果たさねばならない。私はここにきて,ヤドカリのオス間闘争が,実は前例に乏しい研究分野だったことを知る。

       一般に,甲殻類の鋏脚はメスをめぐるオス間闘争における重要な武器形質であり,多くの種でオスはメスよりも発達した鋏脚を持つ(Emlen 2008)。ヤドカリでも,いくつかの種でハサミの性的二型が示され(Doake et al. 2010 など),大鋏脚の大きなオスがオス間闘争で有利だと推察されていた(Asakura 1987)。……と例を挙げるまでもなく,「オスのハサミがケンカに使われそう」という直感は真である。ガードオスは大鋏脚で単独オスの接近を妨害して相手をはじき飛ばし,単独オスもメスをつかんで無理やり奪い取る(図4.1)。私が卒論テーマ会議で「(武器形質の研究は)ヤドカリでもできますか?」と尋ねたのには,当然前例がたくさんあって,失敗しないはず,という打算もあった(4年生の私に結果が出るかわからない冒険をする勇気はなかった)。しかし卒研発表や論文のために資料を探しても,それらしい記述がほとんど出てこない。多数の状況証拠はあるものの,この時点では,ヤドカリのオス間闘争において,大鋏脚が重要な武器形質であるかを実験的に示した研究は皆無だった。


      図4.1 オス間闘争における大鋏脚の使用例。テナガホンヤドカリ Pagurus middendorffii のオス間闘争動画より。ピンクの小さな貝殻にメスが入っている。(a) ガードオス (上) が単独オス (下) に大鋏脚を突き出し、接近を妨害。(b) ガードオスが大鋏脚を折り曲げて勢い良く伸ばし、ハサミをぶつけて単独オスをはじく。(c) 単独オス (上) がハサミをメスの貝殻に引っ掛け、力ずくでガードオス (下) から引きはがす。

    •  ヤドカリにおいて,ハサミがオス間闘争上の武器か? という実に基本的なテーマが未開拓だった最大の理由は,ヤドカリが相手の貝殻を奪う「貝殻闘争 shell fight」を行うことにある。ヤドカリたちは野外で適した貝殻が見つからないと,追いはぎの如く他のヤドカリを攻撃し,その貝殻を奪おうとするのである。ヤドカリの行動生態学史における,ハサミの武器としての機能とは,すなわち貝殻闘争での有用性であった。貝殻闘争では,直接的な攻撃を始める前のディスプレイ(Elwood et al. 2006:図4.2a)や,降参して貝殻から出てくる相手をつかんで引っ張り上げる際などにハサミが使われる(Imafuku1989:図4.2b)。そのため,ハサミを開閉できないようにテープでぐるぐる巻きにされたり,大鋏脚を再生中あるいは欠損中の個体は貝殻闘争の勝率が低下する(Neil 1985;Imafuku 1989)。


      図4.2 貝殻闘争における大鋏脚の使用例。(a) ハサミの甲を相手に示すcheliped presentation と (上)、ハサミを相手に突き出す cheliped extension (下)(Imazu and Asakura 2006)。(b) アタッカー (手前) がディフェンダー (奥) をつかんで貝殻から引っ張り出す様子 (Imafuku 1989)。

       ヤドカリでは,貝殻闘争という特異性によって,多くの生き物で普遍的に見られる「メスをめぐるオス同士の争い」がその陰に隠れてしまっていたようだ。また,数少ないヤドカリのオス間闘争研究も大型オスやガードオスの有利性に着目し(Contreras-Gardu˜no and C´ordoba-Aguilar 2006),武器の重要性については言及すらまれだった(Asakura 1987)。なお,ガードオスが単独オスよりも有利なのは,単独オスがガードオスからメスを奪う必要があるのに対し,ガードオスは単独オスから逃げ続ければいいからなのかもしれない。S 君のヨモギ実験でも,相手よりも大型のオスやガードオスは,小型オスや単独オスよりも勝率が高かった(Yasuda et al. 2011)。